THE HISTRY OF BARRIER-FREE TOURIST IN-DUSTRY

草創期のバリアフリー旅行 30年のあゆみ

 

30年前、バリアフリー旅行という言葉が存在しなかった時代。

入社2年目のある日、ある方から紹介で伺った「老人ホーム」が

「あゆみ」の始まりでした。

 

当時、俗称「養老院」と呼ばれていた頃。外出先では、

多目的トイレもリフト付き車両もない時代。

周りの視線が気になる時代。

旅先での理解が得られない時代でした。

 

そんな時代に取り組み始めた頃の体験の一部を、ブログ風に

まとめてみました。

昭和57(1982)お勤め時代〜平成5(1993)起業〜現在。

 

バリアフリーな旅の歴史は、人としておもてなしの原点。

貴重な体験や写真は、後世に繋がる事と信じています。

 

 

 

1982年(昭和57年)11月18日〜19日

 初めての出会い 養護老人ホーム 静岡焼津温泉1泊2日

  比較的自立歩行できる方々のお年寄り25名と

付き添い職員5名の参加。

  観光バスを配車し、バス乗車時、手を添えながらあがる方。

バスのステップに両手をついてあがる方。

  乗車に時間がかかりましたが、定刻に出発。

  見送りの職員様も大手を振って・・・・

  バス車内では、職員様が隣のお年寄りに、

配慮されている様を見て「おもてなし」って、

これなのかな?って、手ごたえを感じました。

  浜名湖の昼食では2階へ階段を頑張って登って、

うなぎ定食を。

 

  お宿の、焼津グランドホテルでは、和室に泊まり、

まぐろ一匹を解体してお刺身を沢山食べていただきました。

  トイレは、和式が多くて、便座持込だった記憶があります。

  露天風呂から富士山も眺められて、楽しい旅でしたが、

ちょっと遠かったとの声も。

  でも、これが、私の原点だったと、今になってから思っています。

 

 

 

1983年(昭和58年)11月××日〜××日

初めて体験 特別養護老人ホーム 岐阜長良川温泉1泊2日 旅館貸切

 

当時お世話になった「お宿」木造モルタル造り

 ほとんどの方が車椅子移動30名と、付き添いが1対1

  総勢70名ぐらいで、観光バス1台と、公用車3台で出発。

  入浴介助が必要で、大浴場を貸切ることが条件。

  どこの旅館も応じず、小さい旅館(右写真)ごと貸切りました。

  2階建ての旅館1階全部を使っても課題は山積み。

  でも、みんなの知恵と工夫で課題を乗り越えました。

   トイレは部屋も含めてほとんど「和式」便座を持ち込みました。

   全ての部屋が和室でベット1台も無い 宴会場の舞台を「ベット」代わりに。

宴会場に布団を敷いてみんなで宿泊。

   刻み食は理解が得られず食用バサミ持込。夕朝食は宴会場の半分をテーブル椅子に大変身。

   温泉入浴も人力で抱えて入浴(手すりなんて無し)

   バス乗り込みは、抱えて乗車。

  今になって考えると、大変な事をしていたなぁ・・・って、思いがちですが、

  その時は、当り前と思っていました。

  だって、他に手段がないから、仕方ないですね。

  大変だったけど、その時お年寄りと職員の笑顔は、幸せの一言

  達成感、充実感がみんなに、ありましたよ。

  この旅からです。成せば成ると、考え始めたのは。。。

                                        

 

 

1984年(昭和59年)10月××日〜××日

テレビ取材?“11PM”養護老人ホーム 舘山寺温泉1泊2日

  お座敷サロンバスが流行っていた頃、そのバスに乗って、

舘山寺温泉へ。

  靴の履き脱ぎは、大変だがリハビリの一環で、

誰も文句を言うお客様は、いませんでした。

  熱田神宮拝観では、テレビカメラが、

靴の履き脱ぎをアップで撮影している所や、

  手引き歩行をしている所など印象的でした。

  舘山寺ロイヤルホテル(現サゴーロイヤルホテル)で

1泊して、自然の空気を沢山吸って。

  楽しい2日間を過ごしました。

  さて、放映の時(この時代の、福祉番組は、ほとんど深夜放映)

テーマは・・・・・・

  「老人の性意識」・・・言葉が出なかったけど・・・

大切な事ですけどね。。。。

 

 

 

1985年(昭和60年)5月第4週平日

和倉温泉 能登ビューホテル寿苑1泊 養護老人ホーム 旅行中のケガ

  30名のお年寄りと8名の職員で、和倉温泉へ。

  養護でもあり、多少の階段は頑張って下さいました。

  おやどの、寿苑さんでは、舟盛りなど、すごい料理。

  旅館の客室係のお姉さん達が、地元民謡を。

  帰り、昼食場所の金沢西インターレストハウスに到着した時、

他のバス団体の到着と一緒になり、食事場所玄関では、

満員電車状態。

  我々もその、人ごみの中に入ってしまいました。

そして、どこかに、押されて、おじい様が転倒。

かすり傷で済みましたが

  大事に至らなくてホッとしました。

 

  この体験を元に、

他団体の多さや、人の流れ、

心理に注意を払うようになりました。

 

 

 

1985年(昭和60年)10月××日

車椅子を載せた公用車が故障! 大阪日帰り 昼食場所でバトンリレー

  特別養護老人ホームの大阪日帰り旅行。

  大阪駅前の新阪急ホテル地下のレストランで昼食バイキングを食べる企画

  観光バスが、ホテルに着いたら、

車椅子を載せた後続の公用車がいない!!!

  到着まで気が付かなかった理由があります。

それは、携帯電話がなかった時代です。

  どうしたものか、わからない状況が1分。

お年寄りは、おトイレに行きたいって。当然ですよね。

  ホテル従業員に説明し、ホテルの椅子を20脚用意して、

椅子に腰掛けていただき、4人1組で、バトンリレー。

  15人ぐらいのホテル従業員のお手伝いで、

無事、レストランへ。

  ほどなく、公用車が故障した事連絡ありました。

修理完了して1時間後 本体と合流できました。

  この時代では考えられない

「ホテルの気配り」に感謝しています。

  

 

199×年(昭和6×年)10月××日

おかゆは 当店レシピにない 神戸のレストラン 障害者施設の日帰り旅行

  障害者施設の日帰り旅行で、神戸のレストランでの出来事。

  お一人、食材を刻まないと食べられなくて、おかゆが必要。

  そこは、フランス料理店でバイキングスタイルです。

  細かくはできるが、おかゆはできない。って。

  理由は、「当店はフランス料理店で、

シェフのレシピに「おかゆ」はない。」って。

  だから、できない。って。

  リゾットならできるそうです。しかしお客様はおかゆ指定。

  私は、間に入って、すったもんだしていたら、

  最後の手段、おかゆ(レトルトパック)を買っていこうと。

  これで、一件落着しました。

  シェフの気持ちは確かに理解できます。

  おすし屋さんで、餃子を注文するのと同じですもんね。

 

 

 

199×年(昭和又は平成)5月××日

刻み食って これなんなん? レストラン嵐山 デイサービスの遠足

  嵐山へ日帰旅行を企画した「デイサービスセンター様」レストラン嵐山へ下見に行き打合せ。

  テーブルは8人がけで、イスは背もたれなしの長椅子。

  でも頑張ってみようか・・・と。

  刻み食の希望も伝えて、当日を迎えました。

  レストランへ到着すると、刻み食のはずが・・・

刻んでいない・・なんで〜〜?

  店員に聞いてみると、「お漬物を刻んだ」って!!

  全然、わかっていない〜〜〜〜!

確かに、お漬物だけ細かくなっていました。

まな板と包丁を借りて、食用ばさみで、その場で「刻み」

  その分、食事に時間がかかってしまい、てんやわんや・・

次の食事団体が到着して、席が空くのを待っている始末。

  店員も、「早く食べ終わって欲しい」って、

言わんばかりの、冷たい視線。             

  お食事を楽しむ余裕も無く、その場を後にしました。

  今では、刻み食の意味もわかってくれていると思います。

(昔の話なので・・・・)

 

 

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編集後記

草創期は、お客様と「手探り」で、いろんな事を試して、失敗しながら

一歩一歩、お客様と共に歩んできました。

30年経った今、同世代の職員様は、管理職クラスに昇進し、後継者の育成に

取り組んでおられます。

お会いすると「草創期の話と、今後の未来の話」の話題になります(笑)。

 

今後、みんなが「おもてなしの人財」になって、

自然な旅ができるよう願っています。

 

過去の記憶を辿るので、一部誤りがあったら許してださいね。

 

続きは、過去の記憶を思い出せたら更新します。お楽しみに・・・・・

※本文と写真は直接関係ありませんが、写真は当時のものです。